本記事では、和歌山県串本町のトルコ記念館を見学した経験をもとに、エルトゥールル号遭難事故と青森出身の言論人・陸羯南(くが かつなん)の関わりについて紹介します。
弘前市在府町で育った明治のジャーナリスト・陸羯南の名前が、なぜ本州最南端の町・串本町のトルコ記念館に残っているのか?訪問記とともに振り返ります。
郷土・弘前市で知った陸羯南の偉業
先日のブログで書いた通り、青森県弘前市の在府町を散歩しました。
この町は、明治のジャーナリスト・陸羯南が生まれ育った地として知られています。

在府町には「在府町が輩出した明治の先駆者」を紹介する看板があり、その中に陸羯南の名前を見つけたとき、彼の功績が郷土でもしっかり讃えられていることに改めて気づきました。
実は私が陸羯南の業績を深く知るようになったのは、昨年、本州最南端の地、和歌山県串本町を訪れたことがきっかけでした。
トルコ記念館で見つけた「陸羯南」の名前
当時、関西に住んでいた私は、日本とトルコの友好をテーマにしたトルコ記念館(和歌山県串本町)を訪れました。
この記念館は、明治23年(1890)に起きたエルトゥールル号遭難事故と、その後の国際交流の歩みを伝える施設です。
トルコ記念館のリーフレットによれば、事故の概要は次のとおりです。
- 明治23年(1890)6月、オスマン帝国海軍エルトゥールル号が日本との修好のため来日
- 9月、エルトゥールル号は帰国の途上に暴風雨に遭遇、串本町の岩礁で難破
- 587名の将校が犠牲になるが、串本町の人々の救助活動により69名が生還
- 犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコの交流が始まる
トルコ記念館では、エルトゥールル号の遭難事故に始まり、その後のトルコの恩返し(イランイラク戦争での日本人救出)まで、詳しい資料が展示されています。
その一連の展示の中に陸羯南の名前がありました。

遺族への義援金募集活動を援助
陸羯南の名前があったのは、「日本とトルコの友好の先駆」というコーナー。
展示によれば、この遭難事故のあと、遺族を支援するために義援金を集め、日本からトルコへ届けた人物がいました。
その名は、山田寅次郎。
彼は全国で寄付を募り、自ら義援金を携えてトルコを訪問したそうです。
そして、その山田を支援した人物の一人が、当時30代前半で新聞「日本」を創刊したばかりの陸羯南でした。
義援活動に協力した旨が、展示資料の中に簡潔に記されていました。
山田寅次郎は陸羯南の新聞「日本」に寄稿していたことがあり、おそらくその縁で陸羯南は援助をしたんだと思います。
郷土の先人が国際的な支援に関わっていたことを知り、誇らしく感じたことを覚えています。
台風並みの暴風雨から実感した困難な航海
ちなみに、トルコ記念館を訪れた翌日は近くの潮岬(しおのみさき)に行き、青い海と空を満喫しました。
こちらは潮岬の公園内にある本州最南端の碑。

記念館を訪れた当日は、この青空が信じられないほどの悪天候となり、車が浮くような暴風雨に見舞われました。
記念館の方によれば、串本ではこの程度の天候は珍しくないとのこと。
「台風じゃないのにこれ!?」と驚きつつ、エルトゥールル号の航海がいかに過酷なものだったかを、ほんの少しだけ実感できたように思います。
弘前市で育った陸羯南が、短い文章ながら、まさか本州最南端の串本町で語り継がれているとは思ってもいませんでした。
串本町の子どもたちは、エルトゥールル号遭難事件についてしっかり学ぶ機会があるそうです。
こうした大切な歴史は、全国でも広く伝えてほしいと思いました。
なお、この遭難事件については、「日本、遥かなり エルトゥールルの『奇跡』と邦人救出の『迷走』」という書籍に詳しく書かれています。
日本がどれだけトルコに助けられてきたかについても知ることができる良書です。
気になる方はぜひ↓
- 訪問場所:トルコ記念館
- 住所 :和歌山県東牟婁郡串本町樫野1025-26
- 訪問時期:2022年4月