先日秋田県横手市にて鑑賞してきた特別展「皇室の名宝と秋田」。
この特別展の共催企業に名を連ねているのは、秋田魁新報社。秋田市に本社を置く地方新聞社です。
共催してくれたお礼のつもりで秋田魁新報を一部買ってみたのですが、その紙面上部には1874年(明治7年)創刊という記載が。
かなり歴史のある新聞社のよう。
歴史が気になって調べてみると、大久保鉄作という先人の名前が出てきました。
国内で四番目に古い秋田魁新報社
秋田魁新報社は来年2024年に創刊150周年を迎える歴史ある新聞社で、国内で四番目に古い新聞社です↓(参考:秋田魁新報社ホームページ)
- 創刊 :明治7年(1874)2月2日
- 発行部数 :約20.5万部(‘22年3月調べ)
- 県内普及率:約50%(‘21年1月調べ)
創刊日は秋田魁新報の前身である「遐邇(かじ)新聞」の創刊日です。
秋田魁新報社の会社沿革によると、創刊から8年後の明治15年、大久保鉄作という人物が主幹を務めています。
この大久保鉄作という先人について調べてみたら、優秀で行動力があり、忠誠心に厚い人だったことがわかりました。
漢学の才に秀で、秋田日報主幹に
大久保鉄作の経歴の概要は以下の通りです↓(参考:「秋田の先覚 : 近代秋田をつちかった人びと」第5)
■大久保鉄作 : 嘉永5年(1852)〜大正10年(1921年)
- 現在の秋田県秋田市で誕生(父は佐竹藩士)
- 藩校明徳館で根本通明に漢学を学ぶ
- 明治8年(1875)、上京して朝野新聞入社
- 明治15年(1882)、帰郷し遐邇新聞を譲り受け、秋田日報に改題、主幹を務める
- 明治17年(1884)、経営難により秋田日報廃刊
- 同年、秋田県議会議員に当選、後に衆議院議員に当選
- 明治20年(1887)、出資を受け「秋田新報」発行(後の秋田魁新報)、その後、政治に専念
- 明治39年(1906)〜大正5年(1916)、秋田市長を務める
※生まれが嘉永3年(1850)としている資料もあり
大久保鉄作が学んだ藩校明徳館といえば、以前紹介した秋田市の明治天皇聖蹟の隣に明徳館趾の石碑がありました。
明徳館は儒教の経典、医学、日本の古典を学べる教育機関。大久保鉄作の漢学の才能は群を抜いていたらしいです。
しかも、大久保鉄作が漢学を学んだのは、根本通明。明治天皇の御講書始の御進講の役目を果たした人物です。
根本通明は大久保鉄作の才能を絶賛し、「聖二」に改名するよう勧めたほどだったんだとか(大久保鉄作は辞退)。
この時代に漢学を学んだといえば、同じく藩士の子である原敬、陸羯南もそうでした。
漢学は当時のエリートにとって必須の学問だったことがわかります。
そういえば、この三人の共通点は新聞記者を経験していること。
漢学の知識と才能は、新聞記事を書く上で大いに役立ったんでしょうね^^
秋田市長として達成した功績は?
「秋田の先覚 : 近代秋田をつちかった人びと」第5では、大久保鉄作の秋田市長としての功績が四つ挙げられていました↓
- 上水道の市内敷設
- 全焼の市庁舎の新築
- 鉱山専門学校設置
- 佐竹義堯公の銅像建設
※鉱山専門学校は後の秋田大学鉱山学部(現在は理工学部に改組)のこと。
大久保鉄作は秋田市内のインフラや教育機関の整備に力を入れていたようです。
この功績の中で印象的だったのは、佐竹義堯公の銅像を千秋公園(佐竹氏の居城跡)に建設したこと。
佐竹義堯公は佐竹藩最後の藩主です。
大久保鉄作は旧藩主への忠誠心に厚く、銅像建設の県民運動を市長として支援しました。
「いい話!」と思ったのですが、その後、この銅像は太平洋戦争で供出されてしまったらしく…。
平成の時代になり、市民の声を受けて復元されたのが現在の銅像なんだそう。
大久保鉄作ら近代の秋田市民だけではなく、現代の秋田市民からも尊敬を集めている佐竹義堯公。
一体どんな藩主だったんだろう??今度はそちらが気になってきました^^
<参考資料>
・秋田県総務部広報課 編『秋田の先覚 : 近代秋田をつちかった人びと』第5,秋田県,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2972964 (参照 2023-07-11)
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