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【歴史雑記】明治のお家騒動「相馬事件」とは?

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先日のブログに引き続き、今回も明治時代の薬学士の細井修吾に関連するお話です。

細井修吾は明治時代の初期に秋田に野球を伝えた先人で、約7年間薬学士として秋田の病院で勤務をしていました。

その後、明治19年(1886)以降、細井修吾は警視庁で薬学技師、警察医として勤務します。

その仕事内容は、遺体を調べ死因を特定すること。

明治25年(1892)、細井修吾は当時世間を騒がせたある事件に関わることとなります。

その事件とは、「相馬事件」。

旧相馬藩主の相馬誠胤(ともたね)をめぐるお家騒動です。

『天下之大疑問相馬家毒殺事件』

先日、国立国会図書館デジタルコレクションで細井修吾の名前を検索していると、ちょっと心がざわつくタイトルの書籍が出てきました。

そのタイトルは『天下之大疑問相馬家毒殺事件』。

「天下の大疑問」に「毒殺」…タイトルが物騒なこの書籍の中に、細井修吾はある遺体の流出物を分析試験する技師として登場します。

その遺体とは、旧相馬藩主の相馬誠胤でした。

明治のお家騒動「相馬事件」

タイトルの「相馬家毒殺事件」がまったくわからなかったため、コトバンクで調べてみました。

現在では「相馬事件」と呼ばれているこの事件、少し複雑な内容でしたので、登場人物と経緯をそれぞれまとめてみました↓

相馬事件の登場人物

まずは登場人物を整理しました↓

相馬誠胤 ・旧相馬藩(福島県相馬市周辺)藩主、後に子爵
・若くして精神病となり、居室に監禁される 
志賀直道・旧相馬藩の家令
※家令とは事務・会計の管理、使用人の監督を担う人 
錦織剛清・旧相馬藩士
・誠胤の監禁を志賀らの陰謀と疑う
後藤新平・当時、内務省衛生局技師
・錦織を金銭的に支援する

相馬事件の経緯

相馬事件は10年以上世間を騒がせた事件であり、その経緯は以下の通りです↓

和暦西暦出来事
明治91876・この頃(24歳)から誠胤が精神変調の兆候を示し,居室に監禁される
明治16 1883・錦織剛清が志賀らを私擅監禁の罪で告発
 → お家騒動が始まる
経過・誠胤が東京帝大教授らの鑑定により精神病と断定、病院に収容される
・その後も錦織と相馬家の間で訴訟の応酬が続く
明治251892誠胤が糖尿病で死去
※後に毒殺の疑いのため遺体の発掘調査が行われる
明治271894・錦織が重禁錮4年、罰金40円の判決をうける
 → お家騒動が落着する
・錦織側を支援したと思われる後藤新平は無罪に

※私擅(しせん)監禁:法律上の権限がないのに、他人を違法に監禁すること。

精神的な病を患った相馬誠胤が監禁されたことをきっかけに、相馬事件は始まります。

相馬家と側近の志賀に対して元相馬藩士の錦織が監禁を罪だと告発するわけですが、両者の立場をまとめると、

  • 相馬家・志賀側としては、精神病の誠胤を病院に収容することは適切な対応だった
  • 錦織剛清としては、誠胤の監禁が家の乗っ取りに見え、忠君として主君を救おうとした

という構図でしょうか。

誠胤が糖尿病で亡くなった後も、この両者の争いは続きました。

先述の『天下之大疑問相馬家毒殺事件』は誠胤が亡くなった年に出版されたもので、誠胤の死が毒殺ではなかったのかと疑問を呈す内容です。

誠胤の死後も訴訟が続いたこの事件、結果的に錦織への実刑判決で幕を閉じます。

後藤新平も事件に関わる

上記の経緯に書いた通り、この事件には近代日本の政治家、後藤新平も関わりを持っていました。

若き日の後藤新平 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

錦織を経済的に支援をしていたのが、当時内務省衛生局技師だった後藤新平でした。

無罪になったものの、この事件に関わったことにより後藤新平は衛生局技師の地位を退くことになります。

その後、浪人生活を経て再び官僚として優秀な働きを見せた後藤新平は、後に政治家へと転身します。

相馬事件に関わることなく衛生局長を続けていたら、どんな人生を歩んでいたのか…「人間万事塞翁が馬」という言葉を思い出します。

ちなみに、家令の志賀直道は文豪の志賀直哉の祖父。志賀直哉はこの祖父から強い影響を受けました。

相馬藩領だった福島県大熊町には志賀直哉が登って遊んだというグミの木があったそうです。

(東日本大震災でグミの木は流されてしまったものの、残った根から芽を出し、たくましく育っているんだとか!)

幼い頃の志賀直哉、旧相馬藩家臣の祖父から強い影響を受けた 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/) 

相馬事件における細井修吾

この相馬事件に細井修吾はどう関わっていたか。

細井修吾は相馬誠胤の遺体の流出物の分析試験を行った技師として登場します。

流出物の鑑定結果

当時の検事が犯罪性がないと判断し、遺族も望まなかったため、誠胤の死体解剖は行われませんでした。

(これが世間に毒殺を怪しまれる原因になったのでは…)

死体解剖はできなかったものの、警察は誠胤の「鼻口より流出したる液体」を保存、その流出物の分析を任されたのが細井修吾でした。

細井修吾が行ったのは、以下の三種類の検査です↓

  1. 「血質の検査」
  2. 「揮発性の毒物及植物性塩基の検査」
  3. 「鉱性毒物検査」

その結果、細井修吾は「鼻口ヨリノ流出物中血質ヲ存セリト雖モ毒物ノ存在スルヲ認ムルコトヲ得ス」という鑑定を下します。

ここで毒殺の可能性は否定されたのですが、上記の経緯にある通り、その後、遺体の発掘調査をして毒殺の疑いをもう一度調査しています。

日本人の死生観から考えると、墓を掘り返すなんてことはしたくないと思うのですが、それだけ世間の注目度が高かったということでしょうか。

当時の細井修吾の立場

世間の注目を集めた事件を担当した細井修吾。

薬学士となってから14年が経過し、経験豊富な薬学技師となっていた細井修吾は、警視庁内で高い地位に就いていたことがわかりました。

こちらは、相馬誠胤が亡くなった明治25年(1892)1月時点の職員録です↓

(資料加工元:『職員録』明治25年現在(甲),印刷局,明治25. 国立国会図書館デジタルコレクション)

警視庁の医務局では局長に次ぐ地位にあり、「年俸700円」の給料を得ていたこと、「従七位」の位階が与えられていたことがわかります。

「従七位」とは中級官僚、軍人、学者などが得る名誉ある位階のこと。

前年の明治24年(1891)の官報で細井修吾にこの年俸と位階が下賜されていることが確認できます。

他のページをパラパラと見てみると、警視庁の各署の署長の年俸がだいたい700~900円。

細井修吾は警察署長並の年俸を得ており、それだけ薬学士、鑑定者として高い見識と技術を持っていたことが理解されます。

世間が注目する事件の鑑定者となったことにも納得されます。

秋田での野球指導から7年…

明治18年(1885)に秋田で野球指導をしてから7年後、細井修吾がこれほどのエリートになっていたことに驚きました。

(おそらく、多忙で野球を楽しむこともなくなっていたのでは…)

秋田の野球史の深掘りから脱線に次ぐ脱線で相馬事件にたどり着いたものの、これはこれで興味深く、学びとなりました。

まだまだ脱線は続きそうですಠ_ಠ

参考資料

<国立国会図書館デジタルコレクション>

  • 松本譲 編『秋田県職員録』明治12年8月,吉岡十五郎,明12-13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778990 (参照 2025-02-04)
  • 『職員録』明治19年現在(甲),印刷局,明治19. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/779753 (参照 2025-02-04)
  • 塩野光雋 編『天下之大疑問相馬家毒殺事件』,中島清七,明26.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/773437 (参照 2025-02-04)
  • 『法医学会雑誌』(91),法医学会,1893-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1554134 (参照 2025-02-06)
  • 『職員録』明治25年現在(甲),印刷局,明治25. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/779763 (参照 2025-02-04)

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<ウェブサイト>

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