ある日、部屋の整理をしていたときのこと。10年以上前に使っていたコンパクトデジタルカメラが出てきました。
バッテリーを充電して起動してみると、まだ正常に作動し、かつて青森の実家で暮らしていた頃の懐かしい写真がずらりと保存されていました。
その中の一枚に、立派な白いドームと大きな川、住宅街と港が写っている写真がありました。
どうやら家族とドライブに出かけた際に撮影したようですが、場所の記憶が曖昧で、どこだったか思い出せません。
巨大なドームが目印のこの街は?
まず目を引いたのは、巨大な白いドーム。近くには大きな川、住宅地、そして整備された港の風景。


青森県内でこのような風景が見られる場所は限られています。
青森市の港周辺にドームはなかったはず。八戸?いや、違う、じゃあ能代?秋田?……と候補を思い浮かべてはみたものの、確信には至らずギブアップ。
ところが、次の写真に写っていたあるものが、記憶を一気に呼び起こしました。
自衛隊レーダーでむつ市大湊と判明
そこに写っていたのは、自衛隊のレーダー施設。
その特徴的な姿を見て、「これは釜臥山(かまふせやま)からの展望だ」と思い出したのです。

場所は、青森県むつ市大湊。
Googleマップで確認すると、ドームの正体は「しもきた克雪ドーム」、川は田名部川(たなぶがわ)でした。
写真には写っていないものの、実際には眼下に海上自衛隊の大湊基地も広がっていました。
釜臥山からはむつ市の街並みが一望でき、その眺望は絶景です。
日英同盟の立役者、柴五郎の育った町
むつ市といえば、戊辰戦争後、会津藩士たちが移住し斗南藩(となみはん)を開いた町です。
その厳しい自然環境の中で再出発した地には、今も当時の足跡が残されています。
その一つが、陸軍大将・柴五郎(しば ごろう)をたたえる顕彰碑です。

柴五郎は、明治33年(1900)の義和団事件において、北京の列国公使館を守るべく奮戦。
英国をはじめとする列国からの信頼を得て、後の日英同盟成立にも影響を与えた人物です。
この柴五郎が育ったのが、まさにここ、むつ市でした。
義和団事件における二人の青森人
実はこの義和団事件には、もう一人青森にゆかりのある人物が関わっていました。
それが、弘前市出身の小説家・佐藤紅緑です。
紅緑は記者として現地に渡り、義和団事件の様子を取材していたのです(参考:【青森の小説家】陸羯南と正岡子規に学んだ佐藤紅緑の歩み)。
一人は軍人として、もう一人は記者として、同じ歴史の現場に居合わせたふたりの青森人。
むつ市を訪れた写真を見て初めて、義和団事件に二人の青森人が居合わせていたことの偶然に気づかされました。
もし今度訪れる機会があったら、柴五郎の顕彰碑を巡りながらこの地域の歴史をゆっくり学びたいものです。
思いがけない発見をくれた一枚の写真と、古びたデジカメに感謝です。
<参考資料>
・デーリー東北「柴五郎の功績、後世に むつで顕彰碑除幕式」(2021/7/2)(https://www.daily-tohoku.news/archives/69873)
※本記事は、筆者自身の体験や記憶、写真をもとに綴ったものです。歴史に関する記述については、報道や資料を参考にしていますが、より詳しく知りたい方は専門書などもあわせてご覧いただければと思います。