歴史を学ぶ

【高照神社の忠魂碑】弘前に生まれた一戸兵衛陸軍大将の筆跡

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青森県弘前市高岡にある高照神社(たかてるじんじゃ)は、弘前藩の初代藩主・津軽為信、四代藩主・津軽信政を祀る神社です。

以前のブログでは社殿についてご紹介しましたが、今回は境内に建てられた「忠魂碑」に注目してみたいと思います。
鳥居をくぐってすぐ左手に、堂々とした石碑が建っています。

一戸兵衛大将と忠魂碑の筆跡

力強く立派な「忠魂碑」の文字

この石碑には『忠魂碑』の文字と並んで、『陸軍大将 一戸兵衛 書』と刻まれていました。

忠魂碑とは、国家や郷土のために命を落とした人々を顕彰するための記念碑で、日露戦争以降、各地に建てられるようになったとされています。
碑文の揮毫者としては、当時の陸軍大将や軍関係者が選ばれることが多く、一戸兵衛もそのひとりでした。

一戸兵衛(いちのへ・ひょうえ)は、安政2年(1855)に弘前藩士の子として生まれ、陸軍大将まで昇進した人物です。
西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍し、特に旅順攻略では乃木希典の指揮下で戦いました。

画像出典:Wikimedia Commons「General Ichinohe Hyoe」(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ichinohe_Hyoe.jpg)

その後、第13代学習院院長、第6代明治神宮宮司などを歴任し、昭和6年(1931)に没しています。

高照神社は一戸兵衛の父が使えた津軽家ゆかりの場所でもあり、一戸自身にとっても特別な場所だったと思われます。
この堂々とした筆跡から、揮毫に込められた思いが伝わってくるようです。

なお、境内には同様の忠魂碑が計三基ありました。
近くに「駒越村」と刻まれた献燈もあることから、旧駒越村(現・弘前市駒越)出身の戦没者を追悼したものと考えられます。

東奥義塾の同窓、陸羯南との縁

私が一戸兵衛という人物を知ったきっかけは、以前読んだ『マンガふるさとの偉人 陸羯南』でした。
東奥義塾の同窓生として登場しており、両者の交流はその後も続いていたようです。

🧭 参考:【漫画で知る先人】陸羯南と学友たち──弘前発『マンガ陸羯南』と明治の俊才たち

なお、この漫画は下記より無料で読むことができます↓

『三代言論人集』第5巻(時事通信社,1963)には、「羯南は、旧友一戸兵衛を介して、谷干城とは早くから知己の間柄であった」と記載されています。
谷干城(たに・たてき)は、西南戦争で熊本城を守り抜いたことで知られる軍人で、後に学習院の第2代院長も務めました(乃木希典は第10代、一戸兵衛は第13代の学習院院長)。

また、谷干城は陸羯南の政治的信条に共鳴し、彼が主宰する新聞『日本』を支援した人物でもあります。

こうした縁から、一戸兵衛・陸羯南・谷干城という3人のつながりが、明治期の言論や教育界における人的ネットワークの一端をなしていたことがわかります。

左が谷干城、右が陸羯南 画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」※肖像写真を組み合わせて加工(https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/131/、https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/261)

一戸兵衛は、軍人としての功績だけでなく、教育や神道の分野でも責任ある立場を担っていました。

学習院院長や明治神宮宮司を務めることができた背景には、厳格な人柄とともに周囲と確かな信頼関係を築けていたからではないか、と感じました。

その人となりは、彼が揮毫した忠魂碑の堂々とした筆跡からも感じ取れる気がします。

こうした先人の存在を知ると、地元・津軽の歴史が少しだけ身近に感じられます。
高照神社の忠魂碑は、ただの石碑ではなく、津軽の近代史を知るきっかけとして、これからも大切にしたい場所です。

歴史の長さを感じさせる忠魂碑

 

  • 訪問場所:高照神社の忠魂碑(鳥居くぐってすぐ左)
  • 住所  :青森県弘前市高岡神馬野87
  • 訪問時期:2023年9月

<参考資料>

・国立国会図書館 電子展示会「近代日本人の肖像

学校法人学習院公式ホームページ

『三代言論人集』第5巻,時事通信社,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2996494 (参照 2023-10-03)

『郷土の先人を語る』第1,弘前市立弘前図書館[ほか],1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2974751 (参照 2023-10-03)

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