歴史を学ぶ

【青森の氷都】第一回国体冬季大会と八戸

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先日のブログでは、約半世紀前に青森県で行われた国民体育大会(以下、国体)の「あすなろ国体」について、「あすなろ」という言葉の由来と意味について取り上げました。

今回は、あすなろ国体の前に青森県で行われた国体についても調べてみました。

実は、青森県は第1回国民体育大会の開催地でもありました。

この事実は、意外と知られていないことかもしれません。

終戦直後、昭和21年に始まった国体

国体は、終戦直後の昭和21年(1946)に始まりました

以下、文部科学省ホームページの「学制百年史 第二編 戦後の教育改革と新教育制度の発展」から引用します。

敗戦と戦災によって全国民が衣食住のすべてにわたって困窮をきわめ、意気消沈していた昭和二十一年、中堅スポーツマンの提唱によって国民体育大会が、大日本体育会(日本体育協会の前身)の主催で、戦災をまぬがれた京都市を中心に開催され、食糧持参で五、三七七人の選手がスポーツの復興と新日本建設への寄与をねがって参加した。以後、毎年地方持ち回りで開催され、国民の体育・スポーツに対する関心を高め、地方における体育・スポーツの振興と体育施設の整備に大きな役割を果たしている。また、国は第一回大会以来その運営費の一部を補助し、第五回大会からは主催者に加わっている。

出典:文部科学省ホームページ「学制百年史 第二編 戦後の教育改革と新教育制度の発展」

戦後の日本は焼け野原となり、国民生活が困窮していました。

昭和を生きた先人たちの素晴らしいところは、そんな困難な状況でも前向きに進み続けた強さだと思います。

食糧持参という状況では、万全の体制を整えることは難しかったはずです。

それでも、国体を開催して日本を勇気づけ、現代にまで続く伝統を築いてくれたことに感謝したいと思います。

第一回国体冬季大会は八戸市で開催

先述の通り、第一回国体の夏・秋季大会は京都市を中心に京阪神地域で開催され、その翌年の昭和22年(1947)に冬季大会が開催されることとなります。

その冬季大会の開催地は、青森県八戸市でした。

八戸市は、終戦直前まで空襲を受けていたため、冬季大会の開催も復興途上で行われたことと思います。

この冬季大会では、八戸市の長根スケートリンクを舞台に、スピードスケート、フィギュアスケート、アイスホッケーが行われました(参加人数は413名)。

(当初、北海道と長野県でのスキー競技開催を計画しましたが、輸送事情の問題があったため、計画は中止となりました)

八戸は「氷都」と呼ばれ、スケート競技が盛んな地域。

第一回国体の冬季大会が八戸で開催されたことは、氷都としての歴史において大きな意味を持つ出来事だったと思います。

八戸の冬季大会開催数は全国最多

第一回国体の冬季大会後も、八戸市は何度も冬季大会の開催地に選ばれ、最近では令和5年(2023)にも開催地となっています。

冬季大会の開催回数は全国最多14回、これまで培ってきた主催者としてのノウハウがかなり蓄積されているのではないかと思います。

昭和52年(1977)のあすなろ国体の招致に青森県が成功できたのも、八戸市での開催実績があったことも要因の一つかもしれません。

来る来年の国スポ冬季大会では、八戸市はスピードスケート、フィギュアスケート、アイスホッケーの競技の開催地となっています(第一回国体と同じですね)。

 

個人的な思い出を語らせてもらうと、私の若い頃、ちょうど八戸出身の田村岳斗選手(フィギュアスケート)が活躍していました。

田村選手の姿をテレビで観ながら、「八戸って都会だし、スケート選手もいてかっこいい」と漠然とした憧れを抱いていたものです。

そんな田村選手の背景には、八戸の歴史あるスケート文化があったのだと思います。

今回、氷都としての八戸の歴史を知り、改めて八戸という街がより魅力的に感じられました。

また八戸に関する新しい発見があれば、ブログで紹介していきたいと思います。

参考資料

<ウェブサイト>

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