前回のブログで、青森の教育者・福士百衛氏について取り上げました。
これから彼の人生を詳しく追っていきますが、その前に「福士百衛氏がどんな時代を生きたのか?」を整理してみたいと思います。
福士百衛の生まれた明治23年
福士百衛氏は明治23年(1890)生まれです。
明治23年にはどんなことが起きたのか?また、同じ年に生まれた著名人にはどんな人がいるのかをまとめました。
明治23年に起きた出来事
この年、日本では以下のような出来事がありました。
- 教育勅語の発布(学校教育の指針として重要な役割を果たした)
- エルトゥールル号遭難事件(日本とトルコの友好関係のきっかけとなった)
(エルトゥールル号遭難事件については、以前書いたブログもお読みいただければ幸いです)
教育勅語が発布された年に生まれた福士百衛氏は、後に教育者となって自らそれを教える立場となりました。
※福士百衛氏は国語、漢文に加え、修身(道徳教育)を担当していました。

明治23年に生まれた著名人
この年に生まれた著名人には以下のような方々がいます。
- 石原広一郎(実業家)
- 田中耕太郎(法学者)
- 豊島与志雄(文学者)
- 鷹野つぎ(文学者)
- 仁科芳雄(物理学者)
- 今井邦子(文学者)
特に注目すべきは、鷹野つぎと今井邦子の二人の女性が文学界で活躍したことです。
これは、女性が社会で活躍する機会を広げつつあった時代の流れを反映していると言えるでしょう。
それでは、福士百衛氏ら明治23年生まれはどのような時代を生きたのでしょうか?
明治23年生まれが生きた時代
明治23年に生まれた人々は、激動の時代を生きました。
幼少期(1890〜1900年代) | ・日清戦争、日露戦争が起こる |
青年期・壮年期(1910〜1930年代) | ・大正デモクラシーを経験 |
40代以降(昭和初期〜戦中) | ・日本は戦争へと突入、敗戦を経験 |
戦後(昭和20年代以降) | ・社会が大きく変わり、復興の時代へ |
まさに「激動の時代を生き抜いた世代」と言えます。
福士百衛の歩みと時代背景
福士百衛氏の人生を、当時の出来事と照らし合わせて見てみましょう。
(・印は福士百衛氏の出来事、●印は日本で起きた出来事)
幼少期〜学生時代(1890年代)
和暦 | 西暦 | 年齢 | 出来事 |
明治23 | 1890 | 0 | ・南津軽郡石川町(現在の弘前市)に生まれる |
明治27 | 1894 | 4 | ●日清戦争 |
明治37 | 1904 | 14 | ●日露戦争 |
明治43 | 1910 | 20 | ・青森師範学校を卒業 |
教育者としての活躍(1910〜1930年代)
和暦 | 西暦 | 年齢 | 出来事 |
明治43 | 1910 | 20 | ・東京高等師範学校に進学 |
大正元 | 1912 | 22 | ●第一次護憲運動 |
大正3 | 1914 | 24 | ・東京高等師範学校 国漢科を卒業 ・その後、秋田中学、秋田師範、青森中学で教鞭 (科目は国語、漢文、修身) ●日本が第一次世界大戦に参戦 |
大正5 | 1916 | 26 | ●吉野作造が民本主義を提唱 |
大正13 | 1924 | 34 | ●第二次護憲運動 |
大正14 | 1925 | 35 | ・青森県の初代県視学に任命され、教育行政にも携わる ●普通選挙法が成立 |
戦争の時代(1930年代〜1945年)
和暦 | 西暦 | 年齢 | 出来事 |
昭和5 | 1930 | 40 | ・教育現場に復帰 ・八戸高等女学校や野辺地中学の校長を務める |
昭和6 | 1931 | 41 | ●満州事変 |
昭和12 | 1937 | 47 | ・弘前中学の校長に就任(退職まで9年間勤務) ●日中戦争 |
昭和16 | 1941 | 51 | ●太平洋戦争開戦 |
昭和18 | 1943 | 53 | ●学徒出陣 |
昭和20 | 1945 | 55 | ●終戦(ポツダム宣言受諾) |
戦後〜晩年(1946〜1958年)
和暦 | 西暦 | 年齢 | 出来事 |
昭和21 | 1946 | 56 | ・教職を退いた後、神官を務める |
昭和23 | 1948 | 58 | ・弘前高校PTA会長に就任 |
昭和29 | 1954 | 64 | ●神武景気 |
昭和30 | 1955 | 65 | ・社会教育功労者として文部大臣賞を受賞 |
昭和31 | 1956 | 66 | ●経済白書に「もはや戦後ではない」と記される |
昭和33 | 1958 | 68 | ・逝去 |
福士百衛が見た時代の変化
福士百衛氏は、大正デモクラシーの中で教育者としての道を歩み始め、その後、戦争と戦後復興という時代を生きました。
大正元年(1912)、第一次護憲運動が起こり、大正デモクラシーが始まったちょうどその頃、福士百衛氏は東京で学んでいました。
福士百衛氏も、この運動の動きに触れながら学びを深めていたことでしょう。
民主主義運動が高まる中で教育に携わり、戦時中は校長の立場で教育現場に立ち続けました。
終戦後は教育の現場を離れましたが、弘前高校PTA会長として教育への関わりを継続。
そして、日本が高度経済成長へと進んでいく中、人生を終えました。
福士百衛氏の生涯を振り返ることで、氏の歩んだ時代の激動を改めて感じます。
本記事のまとめ
- 明治23年(1890)生まれの福士百衛氏は、戦争と敗戦、戦後復興といった激動の時代を生きた
- 大正デモクラシーが高まる中、教育行政に携わりながら要職を歴任した
- 戦時中は校長の職につき、終戦後はPTA会長として、教育への関わりを続けた
- 晩年は社会教育功労者として文部大臣賞を受賞、日本の復興が進む中、その生涯を閉じた
福士百衛氏が激動の時代を生きたことを念頭に入れつつ、深掘りをしていきたいと思います。
参考資料
<国立国会図書館デジタルコレクション>
- 中等教科書協会 編『中等教育諸学校職員録』大正10年(5月現在),中等教科書協会,大正10-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/937374 (参照 2025-03-28)
※国立国会図書館デジタルコレクションの閲覧には、利用者登録が必要な場合があります。
<ウェブサイト>
- コトバンク
- 近代日本人の肖像
- 三菱UFJ eスマート証券「神武景気」(https://kabu.com/glossary/kabu3148.html)
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