用事があって青森県弘前市に行ってきました。
滞在時間は短かったのですが、せっかく弘前に来たので、以前から気になっていた「在府町(ざいふちょう)」という町を散歩してきました。
在府町は、桜の名所として知られる弘前城公園から徒歩10分ほどの場所にあります。
「在府町」の名前の由来
以前、明治時代のジャーナリスト・陸羯南(くが かつなん)について調べたことがあったのですが、彼の生まれ育った町がまさにこの在府町なのです。
どんな町で彼が育ったのか、ずっと気になっていました。
現在、在府町の一部は弘前大学医学部の敷地になっていますが、それでもなお立派な家々が建ち並び、町の歴史を感じさせます。
朝陽小学校の近くまで歩くと、在府町の成り立ちを説明する標柱を発見しました。

そこには、在府とは「大名や家臣が江戸で勤務すること」で、江戸で召し抱えた侍をこの地に住まわせたことに由来すると書かれていました。
陸羯南の父も弘前藩士だったそうで、周囲には同じような藩士の家が多くあったのだと思います。
私が目にした立派な家々も、そうした歴史とつながっているのかもしれません。
在府町で生まれた先人たち
朝陽小学校から医学部側へ歩いていくと、「木村産業研究所」という建物がありました。
その前には大きな看板が掲げられていて、「在府町が輩出した明治の先駆者」が紹介されていました。

ん? 陸羯南を含めて、先駆者が5人も? そんなに多くの人物がこの町から…!
驚きながら、看板の内容を読みました。以下はその抜粋です。
- 木村静幽:関西財界で活躍。弘前の産業発展のため「木村産業研究所」を設立
- 笹森儀助:千島列島や琉球の探検、奄美大島の行政長官・青森市長も務める
- 陸羯南 :明治言論界の巨星。新聞『日本』を創刊し、正岡子規を援助
- 本多庸一:キリスト教伝道者。東奥義塾を創設し、後に青山学院長に
- 山田浩蔵:廃絶寸前だった津軽塗りを再興し、量産体制を整えて危機から救う
上京して活躍した陸羯南のような人もいれば、地元で文化を支えた人も。いずれも、時代に名を残す偉人たちです。
以前、山口県萩市を訪れたとき、長州藩の志士たちがご近所同士だったことに驚いたのですが、在府町も負けていません。
この町に生まれた彼らは、武士の家庭に育ち、戊辰戦争を経て、時代の激流のなかでそれぞれの道を歩んだ人たち。
もちろん、生まれ持った才覚もあったのでしょうが、育った環境の影響もきっと大きかったのだろうと思います。
津軽塗りの危機を救った先人
なかでも私にとって印象的だったのは、山田浩蔵の存在でした。正直、今回初めて知った人物です。
津軽塗りが一時、廃絶寸前の状態だったなんて……。
私の亡祖母は津軽塗りのお椀やお盆を大切に使っていたので、その事実はちょっとショックでした。
文化というものは、一度失われてしまえば取り戻すのがとても難しい。
そう思うと、山田浩蔵が津軽塗りを再興してくれたことに、感謝の気持ちが湧いてきました。
こうした背景を知ると、急に津軽塗りに対しての愛着が深まります。
さっそく父(亡祖母の家に住んでいます)に、「津軽塗り、今も家にある?」と聞いてみたところ…
「津軽塗りのお盆は私が今愛着を持って使っているから、私が死ぬまで待ちなさい」
……とのこと。
さすがに「待つ待つー!」なんて返事はしませんでしたが、ちゃんと使われているようで安心しました。
お椀の方は私に譲ってくれるそうで、探してくれるとのこと。
……とはいえ、父はマイペースなので、年内に返事が来ればいいな、くらいの気持ちで待つことにします。
- 訪問場所:青森県弘前市在府町
- 訪問時期:2023年6月