歴史を学ぶ

【青森の教育家】福士武雄・百衛父子の経歴に見る共通点

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亡き祖父の恩師である青森の教育家・福士百衛(ももえ)氏について調べています。

福士百衛氏は明治中期に生まれ、東京高等師範で学んだ後、秋田や青森で教鞭をとり、やがて青森の教育行政にも深く携わることになります。

前回のブログでは、福士百衛氏の出身地「薬師堂」について調べ、その結果、福士家が乳井神社という歴史ある神社と関わりがある可能性に触れました。

今回は、福士百衛氏の父、福士武雄氏について調べ、その影響を探ってみたいと思います。

校長の後に神官となった父子

以前調べた資料で、福士百衛氏が「神官福士武雄の長男」と紹介されていたため、「福士武雄」で国立国会図書館デジタルコレクションを調べました。

その結果、『東奥年鑑』昭和9年の追悼記事に福士武雄氏の名を発見しました。以下に要約します。

  • 南津軽郡石川町(薬師堂の合併後の地名)に居住
  • 福士百衛(野辺地中学校校長)の父
  • 小学校教員として30年以上の勤務経験
  • 後に、熊澤神社(石川町薬師堂)の社掌として奉仕
  • 昭和8年5月31日逝去、享年77

※「社掌」は、神社の祭祀や庶務を管理する神職の職名のこと

昭和8年(1933年)に77歳で逝去ということは、福士武雄氏は1855年または1856年生まれ。

幕末の安政時代に生まれたことになります(郷土の先人、陸羯南と同世代ですね)。

ここで注目すべきは、小学校教員を務めた後、熊澤神社の社掌、つまり神官に就いている点です

福士百衛氏も教員を退職後に神官に就いており、父子の経歴は非常に似ていることがわかります。

また、昭和8年に出版された『青森県人名録』では福士武雄氏は「元小学校長」と記載されており、共通する点として、両者とも「学校の長」を務めた点が挙げられます。

(資料加工元:東奥日報社 編『青森県人名録』,東奥日報社,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション )

唯一の違いは、武雄氏は小学校、百衛氏は中学校勤務だったことです。

福士武雄氏が神官を務めた神社

福士百衛氏が晩年神官を務めていた神社は乳井神社(現在の弘前市乳井)と薬師堂熊澤神社(同薬師堂)でした。

福士武雄氏も薬師堂熊澤神社で神官を務めていましたが、乳井神社では神官を務めていませんでした。

福士武雄氏が神官を務めた神社は他にも複数あり、以下の通りいずれも地元の石川町薬師堂周辺の町村の神社です。

当時の町村名神社名現在の住所
 石川町 熊澤神社 弘前市薬師堂
 大鰐町 羽黒神社 大鰐町大鰐薬師館
 大鰐町 貴船神社 大鰐町三ツ目内
 大鰐町 神明宮 大鰐町居土
 大鰐町 久須志神社 大鰐町島田
 碇ヶ関村 八幡宮 平川市碇ヶ関

この昭和8年(1933)当時、乳井神社の神官を務めていたのは瀧川繁太郎氏という人物でした。

約13年後、福士百衛氏が乳井神社の神官を務めることになりますが、その経緯は不明です。

この点については今後、さらに調査を続ける必要があるかもしれません。

ちなみに、福士武雄氏が神官を務めていた神社を地図に示すと、下記の通りになります。

資料加工元:白地図ぬりぬり(https://white-map.com/)

常駐の神官ではなかったと思われますが、それでも薬師堂からかなり距離のある神社も含まれています。

当時は交通の便が今よりもずっと悪かったため、移動にはかなりの苦労があったことと思われます。

余談ですが、この福士父子が神官を務めた薬師堂熊澤神社はGoogleマップのストリートビューから確認できます↓

立派なたたずまいですね。

福士百衛氏の年表(調査反映版)

本文では触れませんでしたが、父・福士武雄氏の逝去の二年前、昭和6年(1931)には母・福士たつ子氏が逝去されました(享年72)。

両親が二年内に相次いで逝去され、福士百衛氏にとって非常につらい時期だったと思います。

これまで見てきた内容を反映させた福士百衛氏の年表は、以下のようになります(太字マーカー部が追記箇所)。

和暦西暦年齢出来事
安政年間 (父・福士武雄氏、母・福士たつ子氏が誕生)
明治2318900・南津軽郡石川町薬師堂(現在の弘前市薬師堂)に
 神官(福士武雄氏)の長男として生まれる
明治43191020・青森師範を卒業し、東京高等師範学校に進学
大正3191424・東京高等師範学校 国漢科卒業
・秋田中学、秋田師範、青森中学教諭を歴任
大正14192525・青森県最初の県視学に任命
・その後しばらく教壇を離れて社会教育主事、地方視学官、
 初代県立図書館館長を務める
昭和5193040・教育現場に復帰、県立八戸高等女学校、野辺地中学の校長を歴任
昭和6193141母・たつ子氏が逝去
昭和8193343父・武雄氏が逝去
 (当時は野辺地中学校校長在任中)
昭和12193747・弘前中学の校長となる(9年間勤務)
昭和21194656・退職
・その後、薬師堂熊澤神社、石川町乳井神社の神官を務める
昭和23194858・神官を務める傍ら、弘前高校PTA会長を務める
昭和25195060・弘前高校PTA会長を退任
昭和30195565・社会教育功労者として文部大臣賞を受ける
昭和33195868・死去

 

本記事のまとめ

  • 福士百衛氏の父・武雄氏小学校教員として30年以上年勤務した後、熊澤神社の社掌として奉仕した
  • 福士百衛氏と父・武雄氏は、教職を退いた後に神官を務めた経歴が共通している
  • 父子で共通して奉仕した神社は薬師堂熊澤神社だった(百衛氏は乳井神社の神官も兼務
  • 昭和8年(1933)時点で乳井神社の神官を務めていたのは瀧川繁太郎氏という人物だった

福士百衛氏の生涯について調べる前に、福士家のルーツについて少し調べることができたらと思っています。

参考資料

<国立国会図書館デジタルコレクション>

  • 東奥日報社 編『東奥年鑑』昭和9年,東奥日報社,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1077127 (参照 2025-04-24)
  • 東奥日報社 編『青森県人名録』,東奥日報社,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1208329 (参照 2025-04-24)
  • 『東奥年鑑』昭和6年,東奥日報社,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1109483 (参照 2025-04-24)

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