青森県弘前市高岡にある弘前藩藩主4代目の津軽信政と初代の津軽為信を祀る高照神社。
先日のブログでは社殿について書きましたが、今回は鳥居をくぐってすぐ左側に建てられた石碑について。
建てられているのは忠魂碑。「忠魂碑」の文字の横には、「陸軍大将 一戸兵衛 書」と刻まれていました。
陸羯南の同窓生、一戸兵衛陸軍大将
一戸兵衛(いちのへ ひょうえ)は明治、大正時代に活躍した弘前生まれの先人で、陸軍大将を務めた方として知られています。
コトバンクによれば、忠魂碑とは「忠義のために死んだ人を記念する碑」のこと。日露戦争以降に普及したそうです。
「碑文題号の揮毫者は帝国在郷軍人会会長の一戸兵衛や鈴木荘六の例が多い」そうで、忠魂碑の語句説明にすでに一戸兵衛が登場していますね。
一戸兵衛にとって、高照神社は弘前藩士の父が使えた津軽家の神社。
この忠魂碑の揮毫には、特に感慨深いものがあったのかもしれません。
高照神社には一戸兵衛による揮毫の忠魂碑が三つ建てられていました。
近くに「駒越村」と刻まれた献燈があったので、旧駒越村(現在の弘前市駒越)出身の戦没者のために建てられた忠魂碑なのかな?
学習院院長、明治神宮宮司を歴任
私が一戸兵衛という先人を知ったのは、以前のブログで感想を書いた「マンガふるさとの偉人 陸羯南」を読んだとき。
陸羯南の東奥義塾の同窓生の一人として紹介されています(登場は10ページ)。
※この漫画は下記サイトにて無料で読めます↓
一戸兵衛の経歴をまとめるとこんな感じです↓(参考:コトバンク)
■ 一戸兵衛 : 安政2年(1855) ~ 昭和6年(1931)
- 父は弘前藩士、西南戦争、日清戦争に従軍
- 日露戦争では旅順攻略に参戦
- 陸軍大将、学習院院長、明治神宮宮司を歴任
一戸兵衛は日露戦争で乃木希典の下で戦い、乃木希典も務めた学習院院長に後に就任。
晩年には、乃木希典が尊敬していた明治天皇を御祭神とする明治神宮の宮司を務めており、乃木希典と関わりが深かったようです。
明治神宮、一度訪れたことがありますが、心が清々しくなる非常に素晴らしい場所でした。
そんな明治神宮の宮司を一戸兵衛が務めていたことは今回初めて知りました。
弘前に実家がある者としては非常に誇らしい歴史です^^
旧友、陸羯南に谷干城を紹介する
陸羯南とは東奥義塾の同窓生だった一戸兵衛。
その後も陸羯南とは交流があったようで、『三代言論人集』第5巻という書誌には、「羯南は、旧友一戸兵衛を介して、谷干城とは早くから知己の間柄であった」という記載が。
一戸兵衛が陸羯南に紹介したという谷干城(たに たてき)は、西南戦争で熊本城を死守した軍人です。
ちなみに、この方も学習院院長(第2代)を務めた方です(乃木希典は第10代、一戸兵衛は第13代の学習院院長)。
谷干城は明治政府の藩閥政治、欧化政策を批判したことでも知られ、「国民主義」を主張する陸羯南の新聞「日本」の支援者の一人となりました。
現代の政財界でも、学生時代の人脈で助けられたなんて話を聞くことがありますが、一戸兵衛と陸羯南の関係もそのイメージに近いのかもしれません。
多くの仲間から信頼されていたエピソードがたくさんある陸羯南。
非常に規律に厳しい軍人であり、学習院院長まで務めた谷干城、一戸兵衛からも信頼されていたことに、陸羯南がいかに人望があったか窺い知ることができます。
信頼できない相手に一戸兵衛は谷干城を紹介しないでしょうし、谷干城も信頼できない相手の新聞を援助することはなかったと思います。
こういう話を一つとってみても、陸羯南への憧れの気持ちが強くなっていきます。
一戸兵衛と陸羯南、この二人の先人が津軽で生まれ育ったこと、そしてその歴史を知れたことを嬉しく思います。
高照神社、行ってみて本当によかった^^
- 訪問場所:高照神社の忠魂碑(鳥居くぐってすぐ左)
- 住所 :青森県弘前市高岡神馬野87
- 訪問時期:2023年9月
<参考資料>
・国立国会図書館 電子展示会「近代日本人の肖像」
・『三代言論人集』第5巻,時事通信社,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2996494 (参照 2023-10-03)
・『郷土の先人を語る』第1,弘前市立弘前図書館[ほか],1967. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2974751 (参照 2023-10-03)
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