先月、岩手県盛岡市にある原敬記念館を訪れました。
原敬は、岩手県出身の政治家で、大正時代に内閣総理大臣を務めた人物です。
実は、以前にも一度訪れたことがあったのですが、別のことで原敬が陸羯南と接点を持っていたことを知り、「もしかして、記念館にも陸羯南に関する記録があるのでは?」と思い、再訪問を決めました。
そして、予想通り、ありました!
「平民宰相」原敬とは?
まずは、原敬について簡単にご紹介します。
原敬は、旧盛岡藩士の家に生まれ、1918年(大正7年)に三つの意味で日本初の内閣総理大臣となりました。
- 日本初の本格的な政党内閣を組織
- 日本初の爵位を持たない「平民宰相」
- 日本初の東日本出身の内閣総理大臣
記念館内には、原敬の優れた業績や、彼の人望、郷土愛に関する資料が多数展示されています。
初めて訪れた際には、その資料一つ一つに驚かされ、原敬がいかに多くの岩手県民に尊敬されているかがよくわかりました。
原敬の最期がテロリストの凶刃に倒れたということは、本当に残念で仕方ありません。
「もし原敬が生きていたら…」という思いは、展示を見ながら自然に湧き上がりました。
歴史の「たられば」を考えるのは、どうしても避けられません。
ちなみに、入館料は200円。
これだけ充実した資料が展示されていて、この入館料で良いの!?と思わずにはいられません。
盛岡のおすすめ名所です^^


原敬と陸羯南は同窓生
原敬と陸羯南の接点を知ったのは、弘前市立郷土文学館のホームページで陸羯南の紹介を読んでいる時でした。
(陸羯南の生家付近を散歩したことがきっかけです)
陸羯南は、東京帝国大学法学部の前身である司法省法学校で学んでいましたが、実は原敬も同窓生だったのです。

しかし、原敬を含む15名は、退校処分を受けてしまいます。
当時、司法省法学校では食事が非常に粗末だったため、原敬ら学生たちは校長に直訴しますが、結局その直訴した学生たちは退校処分を受けました。
この時、退校処分を受けた学生の中に、なんと陸羯南も含まれていたのです。
同窓生というだけでも驚きでしたが、この退校処分という出来事に陸羯南も関わっていたとは!
そこでふと思い出したのが、原敬記念館に展示されている「司法省法学校の合格者の順位一覧」でした。
もしかして、そこに陸羯南の名前が載っているのでは?と考え、再びそのリストを確認することに。
ちなみに、原敬は104名中2番目という成績で合格しています。頭が良すぎますね!。
「中田実」の名前を探せ!
当時、陸羯南は「中田実」と名乗っていました(後に陸家を再興し、号として「羯南」を名乗った)。
そのため、原敬記念館の合格者一覧に「中田実」の名前が載っているかどうか、再度確認してみました。
すると、やはりありました!「中田実」の名前は34番目。
こうした一次資料で歴史的事実を再確認する瞬間は、なんとも嬉しく感じます。
原敬と陸羯南は司法省法学校を退校処分になったその後の経歴も、少し似ています↓
- フランス語翻訳で身を立てる
- 新聞社での勤務を経験する
- 同時期に官職につき、文書局に勤務する(部署は異なる)
記念館の方に話を聞いたところ、原敬と陸羯南の親交は長く続いていたそうで、仲が良かったのだとか!
もし陸羯南が長生きしていたら?
陸羯南がこの世を去ったのは1907年(明治40年)。
そして、11年後の1918年(大正7年)、原敬は内閣総理大臣に就任し、日本初の政党内閣を組織しました。
もし陸羯南が長生きしていたら、原内閣をどう批評していたのだろうか?と、つい考えてしまいます。
歴史に「たられば」を持ち込んでしまいますが、それだけ原敬と陸羯南という二人の先人は興味を引かれるんですよね。
原敬記念館周辺には岩手県立美術館があり、散歩するのにぴったりな小高い丘もあります。
原敬記念館に行った後に周辺を散歩するのもおすすめです。

- 訪問場所:原敬記念館
- 住所 :岩手県盛岡市本宮四丁目38番25号
- 訪問時期:2023年5月