陸羯南が生まれ育った町を見てみたくて、先日散歩してきた青森県弘前市在府町。
在府町で生まれた明治の先人を讃える看板の中に陸羯南の名前を見つけたときは、陸羯南はやっぱりすごい人だったんだなぁと再確認されました。
私が陸羯南の功績について知ったのは、ここ一年のこと。
それまでは名前と顔と明治のジャーナリストということくらいしか知りませんでした。
陸羯南について知りたいと思うきっかけをくれたのは、本州最南端にある和歌山県串本町でした。
明治時代の言論をリードした先人
陸羯南の経歴をざっくりまとめると、こんな感じです↓
■ 陸羯南 : 安政4年(1857) ~ 明治40年(1907)
- 青森県弘前市で誕生(父は津軽藩士)
- 新聞「日本」を創刊、発行停止処分を何度も受けながらも、政府の西欧化政策を批判し、「国民主義」を主張
- 正岡子規を生涯に渡って支援、多くの言論人に慕われる
発行停止処分を受けても臆することなく新聞発行を続けた、なんて話を聞くと、やはり陸羯南も「じょっぱり」(津軽弁で強情、頑固なこと)だった?なんて思ったり。
一方で、たくさんの人々から信頼をされていたようで、部下や同僚にとってとても心強い人だったんだと思います。
トルコ記念館に陸羯南の名が!?
陸羯南の名を数年ぶりに目にしたのは、昨年の春、和歌山県串本町を訪れたときのことでした(当時は関西在住)。
訪問目的は、トルコ記念館に行くこと。トルコ記念館は、日本とトルコの親善を深める目的で建設された施設です。
この両国の友好の始まりは、100年以上前に起きたエルトゥールル号遭難事故にまで遡ります。
その事故の概要は下記の通り↓(参考:トルコ記念館 リーフレット)
- 明治23年(1890)6月、オスマン帝国海軍エルトゥールル号が日本との修好のため来日
- 9月、エルトゥールル号は帰国の途上に暴風雨に遭遇、串本町の岩礁で難破
- 587名の将校が犠牲になるが、串本町の人々の救助活動により69名が生還
- 犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコの交流が始まる
トルコ記念館では、エルトゥールル号の遭難事故に始まり、その後のトルコの恩返し(イランイラク戦争での日本人救出)まで、詳しい資料が展示されています。
その一連の展示の中に陸羯南の名前がありました。
遺族への義援金募集活動を援助
陸羯南の名前があったのは、「日本とトルコの友好の先駆」というコーナー。そこでは、日本とトルコの友好に尽力した山田寅次郎という人物が紹介されていました。
山田寅次郎は、事故犠牲者の遺族を慰めるために、義援金を集め、自らその義援金をトルコに届けたという人物。
展示の中で、陸羯南はその義援金集めを援助した人物として登場します。
エルトゥールル号遭難事故が起きたとき、陸羯南は30代前半。この年の前年に新聞「日本」を創刊したばかりで、多忙を極めていた時期と推測されます。
山田寅次郎は陸羯南の新聞「日本」に寄稿していたことがあり、おそらくその縁で陸羯南は援助をしたんだと思います。
義援金集めに協力したという趣旨の短い文だったと記憶しているのですが、なんだかとても誇らしく感じたのを覚えています。
昨年、初めてエルトゥールル号遭難事故のことを知った私(義務教育で教えて欲しい内容!)。
トルコ記念館に来てみてさらに当時のことを学び、現在まで続く日本とトルコの友好に感動しました。
その歴史の中に、郷土の先人が関わっていたことが素直に嬉しかったです^^
そういう経緯があって、陸羯南について調べ、陸羯南が生まれ育った在府町を散歩してみました。
本州最南の地で本州最北の先人に興味を持つことになるとは思いませんでしたが^^;
ちなみに、タイトル画像はトルコ記念館から車で20分ほどのところにある潮岬の写真です。
この写真を撮った前日にトルコ記念館に行ったんですが、悪天候に見舞われて写真を撮れず。
台風が到来しているわけでもないのに、車が軽く浮くぐらいの暴風雨でした。記念館の職員さんによれば、このくらいの暴風雨は珍しくないとのこと。うそおおおおっっっ。
エルトゥールル号がいかに困難な航海をしていたのか、少しだけ理解できたような気がします…。
- 訪問場所:トルコ記念館
- 住所 :和歌山県東牟婁郡串本町樫野1025-26
- 訪問時期:2022年4月
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