2023年7月、秋田県立近代美術館の特別展「皇室の名宝と秋田」を訪れた際、共催企業に秋田魁新報社の名を見つけました。
気になって新聞を一部購入してみると、紙面上部には「明治7年創刊」の文字が。
明治7年というと、1874年。これは、国内でも四番目に古い歴史なんだそう。
その創刊から8年後、主幹を務めたのは秋田出身の人物・大久保鉄作という先人でした。
この記事では、大久保鉄作という近代秋田を支えた先人の足跡と、彼が関わった秋田魁新報の歩みを紹介します。
国内有数の歴史を持つ秋田魁新報社

秋田魁新報社は、令和6年(2024)に創刊150周年を迎える老舗新聞社です(参考:秋田魁新報社ホームページ)。
前身の「遐邇(かじ)新聞」は明治7年(1874)に創刊され、現在の秋田魁新報に至るまで、秋田県民に情報を届けてきました↓
- 創刊:明治7年(1874)2月2日
- 発行部数:約20.5万部(2022年3月時点)
- 県内普及率:約50%(2021年1月時点)
創刊日は秋田魁新報の前身である「遐邇(かじ)新聞」の創刊日です。

明治15年(1882)、この新聞の主幹を務めたのが大久保鉄作でした。
漢学の才に秀でた神童が新聞業界へ
大久保鉄作(おおくぼ てっさく)は嘉永5年(1852)に秋田で生まれた佐竹藩士の子です。
彼は藩校・明徳館で根本通明に漢学を学び、のちに上京して新聞人として活躍、さらに政治家としても手腕を発揮しました。
『秋田の先覚 : 近代秋田をつちかった人びと』第5によると、主な経歴は以下の通りです(生年については嘉永3年説もあり)。
- 明治8年(1875):東京で朝野新聞に入社
- 明治15年(1882):帰郷し、遐邇新聞を譲り受け「秋田日報」と改題、主幹を務める
- 明治17年(1884):秋田日報廃刊後、県議会議員に当選、その後衆議院議員に
- 明治20年(1887):秋田新報(のちの秋田魁新報)を発行
- 明治39年(1906)~大正5年(1916):秋田市長を務める
- 大正10年(1921):死去
大久保鉄作が学んだのは、佐竹藩の藩校・明徳館。
先日のブログでもご紹介しましたが、現在秋田市の千秋公園近くには明治天皇の聖蹟碑があります。
その隣には「明徳館趾」の石碑が立っており、往時を偲ばせます。


明徳館はもともと「明道館」と呼ばれ、儒教の経典、医学、日本の古典を学ぶ教育機関でした。
大久保鉄作の師の根本通明は、明治天皇の御講書始でも講義を任された漢学者。
根本通明は鉄作の漢学の才能を絶賛し、「聖二」と改名するよう勧めたこともあったといいます(鉄作は辞退)。
同じ時代に漢学を修めた新聞記者として、原敬や陸羯南も知られています。
明治初期の新聞人は、漢学という素養によって世論を導く役割を果たしていたのかもしれません。
新聞人から政治家へ――市長として秋田を近代化
新聞記者時代を経て、秋田市長となった大久保鉄作は教育・インフラの整備に尽力しました。
『秋田の先覚 : 近代秋田をつちかった人びと』第5によれば、主な功績は以下の通りです。
- 市内への上水道敷設
- 全焼した市庁舎の新築
- 鉱山専門学校(現・秋田大学理工学部)の設置
- 佐竹義堯公の銅像建設
中でも佐竹義堯公(最後の佐竹藩主)の銅像建設は、大久保鉄作の旧藩主への忠誠心が感じられます。
この銅像は戦時中に金属供出されましたが、平成時代に市民の声で復元され、今も千秋公園に立っています↓
秋田魁新報の紙面の「明治7年創刊」の文字。
それが今回、大久保鉄作という先人を知るきっかけになりました。
日々何気なく目にしていた新聞の一行にも、こんな歴史の重みがあったのかと、あらためて気づかされました。
<参考資料>
・秋田県総務部広報課 編『秋田の先覚 : 近代秋田をつちかった人びと』第5,秋田県,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2972964 (参照 2023-07-11)
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