歴史を学ぶ

【御製に詠まれた風景】昭和52年の青森行幸──「弘前の秋」と「小山田の園」に想いをめぐらせる

歴史を学ぶ

令和8年(2026)、青森県で令和初となる国民スポーツ大会(旧・国民体育大会)が開催されます。
青森県にとっては、昭和52年(1977)以来、二度目の開催となります。
こうした大規模な国民的イベントの開催は、過去の記録を改めて読み直す好機でもあります。

先日、昭和52年に青森県で初めて開催された「あすなろ国体」の開会式に際し、昭和天皇が詠まれた御製を取り上げました。
しかし、このとき青森行幸において詠まれた御製は一首ではありません。実は、さらに二首あります。

今回はそのうちの一首に注目したいと思います。

弘前の秋を詠んだ御製

りんごの収穫期を迎えた青森県で、昭和天皇は次の御製を詠まれました。

弘前の 秋はゆたけし りんごの実 小山田の園を あかくいろどる

出典:『行幸啓誌』

弘前の秋、赤く色づくりんごの実。
ここまでは素直に理解できますが、気になるのは「小山田の園」です。
ここに登場する「小山田」は、弘前市石川小山田を指すと考えるのが自然でしょう。

実際、石川はりんごの名産地として知られ、同地区の大佛公園にはこの御製碑も建てられています。
小山田のりんご園が御製に詠まれたことは、地域にとって誇りとなっています。

では昭和天皇は、小山田を訪れたのでしょうか?

『行幸啓誌』の記録を見る限り、昭和天皇が小山田を訪問されたという記載はありません。
それにもかかわらず、御製には小山田が登場する。

いったい、なぜなのでしょうか。

資料が不足している以上、断定はできません。
しかし、推測が許される範囲で、ここでは二つの仮説を立ててみたいと思います。

仮説① 御訪問先での御説明を受けて詠んだ?

『行幸啓誌』(青森県, 1978.2)によれば、竹内俊吉知事は県勢概要の御説明の中で、りんごを繰り返し取り上げています。

「本県におきましては……現在は、米も、りんごも豊かな稔りの秋を迎えております。……『県の木』はヒバでありますが、『県の花』はりんごの花であります。……りんごは100年の歴史をもっておりますが、常に新品種の開発栽培技術の向上に努めております。」

出典:『行幸啓誌』

要点は次の三つです。

  • りんごが米と並ぶ基幹作物として強調
  • りんごの花が県を象徴する花として紹介
  • りんごの新品種開発や栽培技術向上を報告

つまり、御説明の場面で「青森=りんご」という情報は、繰り返し強調されていました。

しかも時期は10月。収穫期の入り口です。
昭和天皇が「青森の秋」と聞いて、りんごの情景を強く印象づけられたとしても不思議ではありません。

さらにその後、黒石市の青森県りんご試験場を訪問し、作柄の説明を受け、果実を自ら摘まれる場面もありました。

では、その後の御視察先である弘前市役所ではどうでしょうか。
ここでも市勢説明が行われた可能性は高いですが、現時点で資料が確認できていません。

しかし、りんごの話題が一切出なかったと考えるほうが不自然です。
その説明の中で、小山田のりんご園が写真や映像などで示された可能性もあると思われます。

小山田の園は傾斜地に広がります。栽培技術の説明として取り上げられていてもおかしくありません。

御製は、必ずしも「その場で見た風景」に限らず、御説明を通じて得た印象が、歌になることもあるのかもしれません。

この仮説は、比較的無理がないように思われます。

仮説② 小山田の園を御覧になって詠んだ?

もう一つの可能性は、昭和天皇が実際に小山田方面をご覧になったという仮説です。

石川は、明治天皇が立ち寄られた土地でもあります。
そのため「祖父の足跡を意識して経由されたのではないか」と想像することもできます。

ただ、現実的に考えると、この仮説の可能性は非常に低いです。

黒石市のりんご試験場から弘前市役所へ向かう際、『行幸啓誌』の記録では移動時間は約40分とされています。
現在の地図で小山田経由を試算すると約45分となり、目安としても時間超過が生じます。

もちろん当時の道路事情と一致するとは限りません。
しかし、少なくとも「余裕のある寄り道」が組み込まれていたとは考えにくいでしょう。

加えて、行幸には警備が伴います。
経路を遠回りすること自体が難しいでしょう。

したがって、「小山田の園を御覧になって詠まれた」という解釈は、可能性が低いと言わざるを得ません。

「小山田の園」が少しだけ身近に

結局のところ、「小山田の園」がなぜ御製に詠まれたのかは、私が見つけた資料だけでは確定できません。
ただし、何も分からないわけでもありません。

青森県庁での県勢説明があり、黒石でりんご摘みがあり、弘前でも何らかの説明があった。
これらが折り重なって、「弘前の秋」そして「小山田の園」という言葉が選ばれた可能性は十分にあります。

確証はありませんが、記録を追い、可能性を比べていくと、御製の背後にある風景が少しだけ具体的になってきます。
今後、資料が見つかれば、この御製について新しい事実が明らかになるかもしれません。
その際はまた、記録に基づいて報告したいと思います。

 

🧭関連記事:

参考資料

<国立国会図書館デジタルコレクション>

  • 行幸啓誌』,青森県,1978.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12261230 (参照 2025-08-28)
  • 昭和の御製集成』,毎日新聞社,1987.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12686779 (参照 2025-08-28)
  • 星野武男 編『明治天皇行幸史録』,潮書房,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1236359 (参照 2025-08-28)

※国立国会図書館デジタルコレクションの閲覧には、利用者登録が必要な場合があります。

タイトルとURLをコピーしました