昭和15年(1940年)の弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)で、いったい何があったのか。
最近、祖父が書き残した文章を手がかりに、そんなことを調べています。
祖父によれば、昭和15年(1940年)の弘前中学の入学定員は200人。ところが当時の福士百衛校長が、さらに50人を追加で入学させたのだそうです。
その謎を追うため、青森県立弘前高等学校の沿革を眺めていたところ、思わぬ記述に目が止まりました。
明治41年、皇太子殿下が弘前中学校へ
明治41年(1908年)9月23日:皇太子殿下御来校。
……皇太子殿下?
このときの皇太子は、明宮嘉仁(よしひと)親王殿下。のちの大正天皇です。
さらに沿革を下へ進んでいくと、もう一つ気になる記述がありました。
昭和34年(1959年)4月30日:秩父宮・三笠宮両妃殿下御来校。
今度は、秩父宮妃勢津子殿下と三笠宮妃百合子殿下です。
ああ、そうだ。秩父宮家と弘前には深いご縁がありました。
大正天皇の第二皇子で、昭和天皇の弟宮である秩父宮雍仁(やすひと)親王殿下は、昭和10年(1935年)に弘前へ赴任され、勢津子妃殿下も弘前で暮らしていらっしゃいました。
大鰐の親戚も、「秩父宮様のおかげで大鰐のスキーがたいへん盛り上がった」と感謝していました。
弘前は、軍都としての長い歴史を持つ街でもあります。
学校の沿革を眺めていただけなのに、明治から昭和へと続く弘前と皇室との接点が、少しずつ浮かび上がってくるようで、なんだかうれしいなぁ。
皇太子殿下は弘前でどこを訪れた?
せっかくなので、明治41年(1908年)の皇太子殿下が弘前で訪れた場所をいくつか調べてみました。
※以下は訪問先の一部で、訪問順ではありません。
9月23日
- 弘前公園にお立ち寄り
- 弘前中学校に御来校
- 偕行社(第八師団将校らの親睦・厚生施設)に御宿泊
9月24日
- 陸軍第八師団を閲兵(※)
- 外崎嘉七の「向陽園」を御訪問
※元首・大臣・司令官などが、整列した軍隊の前を見回ること(出典:コトバンク)。
外崎嘉七とは「りんごの神様」と呼ばれた青森の先人です。
皇太子殿下は外崎の農園「向陽園」を訪れ、りんご栽培にますます努力するよう激励されたことが、弘前大学の資料に残されています。
弘前中学校という教育の現場、第八師団、そして青森を代表する産業へと成長していくりんご。
明治41年(1908年)の東北巡啓では、皇太子殿下がこうした弘前のさまざまな場所を訪れていたことがわかりました。
大正天皇・昭和天皇と弘前のりんご
個人的には、皇室の方が青森のりんごを気にかけてくださっていたことが、なんだかうれしいです。
そして後には、昭和天皇も弘前のりんごを御製(天皇がお詠みになる和歌)に詠まれています。
弘前の 秋はゆたけし りんごの実 小山田の園を あかくいろどる
出典:『行幸啓誌』
この御製は、昭和52年(1977年)の青森県行幸の際に詠まれた御製です。
皇太子時代の大正天皇が弘前でりんご栽培に取り組む外崎嘉七を激励され、その後、昭和天皇も弘前のりんごを御製に詠まれた。
こうして時代を隔てた出来事を並べてみると、皇室と弘前、そして青森りんごとの接点が少し立体的に見えてくるような気がします。
また調べたいことが増えました
明治41年(1908年)、皇太子殿下は弘前でどのような時間を過ごされたのでしょう。
昭和34年(1959年)の秩父宮妃・三笠宮妃両殿下の弘前高校御来校についても、まだ詳しい経緯を調べていません。
どちらも、改めて調べてみたいと思います。
冒頭の弘前中学校についての謎は残るまま、また調べたいことが増えてしまいました。
ひとまず今日は、備忘録としてここまで。
参考資料
- 青森県立弘前高等学校「青森県立弘前高等学校 学校情報 沿革」(https://www.hirosaki-h.asn.ed.jp/main/gakkou_joho/enkaku.html)
- 青森県弘前市|Hirosaki City「歴代市長(旧弘前市)」(https://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/rekishi/shuchou/2015-0109-2045-15.html)
- 青森県弘前市|Hirosaki City「旧弘前偕行社」(https://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/bunkazai/kuni/kuni19.html)
- コトバンク「閲兵」
- 弘前大学「㉒ 東宮殿下行啓記念碑」(https://www.hirosaki-u.ac.jp/campus/data/22.pdf)
- 『行幸啓誌』,青森県,1978.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12261230 (参照 2026-08-21)
