祖父が書き残した文章を読んでいたところ、旧制弘前中学時代について、気になる記述を見つけました。
昭和15年(1940年)、祖父が弘前中学を受験したときの話です。
村で優秀と言われていた祖父と友人は、そろって不合格となりました。
ところが、ここで一人の人物が登場します。
当時の校長、福士百衛(ふくし ももえ)です。
祖父によれば、福士校長はこの年、定員200人に対して、さらに50人を追加合格させたというのです。
その50人の一人が、祖父でした。
定員200人。さらに50人を追加?
祖父が書き残した文章によれば、この年は受験生の出来がよく、福士校長は不合格にするには惜しいと考えたようです。
ただし、祖父によれば、この措置を県庁が正式に認めたわけではなかったようです。
追加された50人は、
「福士百衛私立中学校」の生徒
という身分に置かれたといいます。
急にすごい名前の学校が出てきました。
しかも、三年生までは「戊組」として他のクラスとの入れ替えもなく、四年生から県立中学生と同等に扱われたとのこと。
「福士百衛私立中学校」とは、いったい何だったのでしょうか。
そもそも旧制弘前中学とは?
青森県立弘前中学校は、現在の青森県立弘前高等学校の前身です。
弘前高校の公式沿革によると、
- 明治17年(1884年)に「青森県中学校」として青森市に創立。
- 明治22年(1889年)に弘前市元寺町へ移転。
とのこと。
当時の旧制中学校は現在の中学校とは異なり、小学校卒業後に進学する5年制の男子中等教育機関でした。
祖父が受験した昭和15年には、すでに50年以上の歴史を持つ学校だったことになります。
昭和15年の定員「1,250名」が気になる
弘前高校の公式沿革には、生徒定員について次の記録があります。
- 大正5年(1916年):700名
- 大正9年(1920年):800名
- 大正14年(1925年):1,000名
- 昭和15年(1940年):1,250名
大正14年に1,000名だった生徒定員が、祖父の受験した昭和15年には1,250名となっています。
ここで、祖父の記述に戻ります。
この年の入学定員は200人。そこへ追加されたのが50人。
200人+50人=250人。
そして弘前中学は5年制です。
仮に各学年の定員を250人とすれば、
250人×5学年=1,250人。
……妙にきれいに数字が合います。
もちろん、これだけで「50人の追加合格が確認できた」ということにはなりません。
公式沿革の1,250名と、祖父が書き残した50人の追加合格との関係は、現時点では確認できていません。
むしろ祖父によれば、その50人は当初、正式な県立中学生ではなく、三年生まで「戊組」という特殊な立場に置かれていました。
「戊組」は5番目のクラスだった?
「戊」は、甲・乙・丙・丁に続く十干の5番目です。
では祖父たちの「戊組」は、文字どおり5番目のクラスだったのでしょうか。
これについても、昭和15年当時の弘前中学が実際に甲・乙・丙・丁・戊という学級編成だったことまでは、まだ確認できていません。
わかっていることと、まだわからないことを分けて考える必要がありそうです。
公式沿革の「1,250名」と、祖父のいう「追加50人」には何か関係があったのか。
なぜ50人は三年間だけ別扱いだったのか。
そして何より、
「福士百衛私立中学校」とは、いったい何だったのか。
一つ確認すると、また一つ謎が増えました。
次回に続きます。
参考資料
- 間山洋八 著『青森県読書運動明治大正史 : 郷土創造と焚火仲間』,津軽書房,1981.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12276912 (参照 2026-08-21)
- 青森県立弘前高等学校「青森県立弘前高等学校 学校情報 沿革」(https://www.hirosaki-h.asn.ed.jp/main/gakkou_joho/enkaku.html)
