先日のブログでお伝えした高照神社。そこから約6kmの場所にある大浦城址碑へ行ってきました。
大浦城址碑は旧岩木町五代早稲田(現在の弘前市五代早稲田)にあります。
この大浦城、弘前藩の初代藩主である津軽為信が津軽地方の支配の拠点にした城なんだそう。
旧岩木町中心地に静かに建つ碑
大浦城址碑は弘前市立津軽中学校のすぐ近くにあります。
この辺りには庁舎や小学校、住宅などがあり、旧岩木町の中心地の役割を果たしています。
城があったわけですから、昔から人の往来が盛んで、にぎやかだったんでしょうね(今は少し静かな雰囲気ですが)。
大浦城址碑はそんな場所にひっそりと建っていました。
長い年月を感じさせる石碑で、「大浦城址」と力強く立派な文字が刻まれています。
南部氏からの「津軽切り取り」
この大浦城址碑の近くに設置された案内板では、「津軽切り取りの歴史」が説明されていました。
「津軽切り取り」とは、弘前藩初代藩主、津軽為信による津軽統一のこと。
その昔、津軽地方は南部氏が治めていたのですが、大浦為信(後の津軽為信)は南部氏の家臣であるにもかかわらず、南部氏の城を次々に攻略していきました。
案内板に書かれた内容をまとめるとこんな感じです↓
- 文亀2年(1502)、種里城(鰺ヶ沢町)城主、南部光信が築城
- 永禄10年(1567)、大浦城主、為則の婿養子として為信が入城
- 元亀2年(1571)、為信が石川城(南部氏の津軽支配の拠点)を攻略
- 石川城攻略を皮切りに、為信が津軽地方の領有を進める
- 天正18年(1590)、豊臣秀吉から津軽地方の支配を事実上承認される
- 文禄3年(1594)、為信が堀越城(弘前市堀越)に居城を移し、支城に
- 元和元年(1615)、「一国一城の令」により廃城
居城としての大浦城には92年の歴史がありますが、そのうち南部氏が城主として治めていた期間は約70年間。
その後、約20年で大浦為信(後の津軽為信)は津軽から南部氏を駆逐しました。
「津軽為信は主君である南部氏を裏切ったひどい奴」みたいな評判をよく聞きますが、なるほど、こういうことだったのか…。
実力がものを言う戦国時代、大浦城も激動の時代を迎えていたようです。
今の平穏な風景と似ても似つかない、緊迫した雰囲気が漂っていたんだろうなぁ…。
その後起きた津軽と南部の対立
青森県弘前市が実家の私、郷土史に興味のない子どもでしたが、津軽地方と南部地方が昔から仲が悪いことはなんとなく理解していました。
津軽藩成立の経緯に始まった津軽と南部の敵対関係。
江戸時代には相馬大作事件(南部藩士が津軽藩主襲撃を企てた事件)が起き、幕末の戊辰戦争では津軽藩と南部藩は戦っています。
そんな昔に比べると、今日では「津軽と南部は仲が悪い」、「弘前vs八戸」と盛り上がる番組をときどき見かけるぐらい。
昔に比べてずいぶんと穏やかな関係になりました。
津軽と南部、両氏の敵対のきっかけとなった大浦城。
血なまぐさい争いが遠い過去のものとなった現在、ポツンとたたずむ大浦城址碑に感慨深い気持ちになりました。
そして、そのすぐ近くに建てられた方言看板にクスッとなるのでした。
- 訪問場所:大浦城址碑
- 住所 :青森県弘前市五代早稲田
- 訪問時期:2023年9月
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