先日、「和歌山県の金剛峯寺で南方熊楠(みなかたくまぐす)や富岡鉄斎らの礼状や戦死者名簿など古文書が発見された」という記事を読みました(2026年4月10日付け産経新聞)。
この記事の中で気になったのは、「和歌山県出身の熊楠は昭和4年、生物学に精通した昭和天皇に御進講を行い、同37年には昭和天皇が熊楠をしのぶ御製(ぎょせい)を詠まれた」という一文です。
その御製とは、次の通りです。
雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
出典:『白浜町の碑文』
昭和37年(1962)の南紀行幸の際、昭和天皇は雨に煙る神島(かしま)を望みながら、すでに故人となっていた南方熊楠を思い起こされました。
本記事では、この御製を手がかりに、昭和天皇と南方熊楠との御交流、そして神島をめぐって詠まれた二首の和歌について見ていきます。
生物学者・民俗学者 南方熊楠とは
南方熊楠は1867年(慶応3年)に生まれ、1941年(昭和16年)に没した生物学者、民俗学者です。

生誕地は和歌山市橋丁。現在は生誕碑が建立されています。
南方熊楠の経歴から、山深い自然の中で育った印象を持つ方もいるかもしれません。しかし、実際には下記の生誕地を地図で見てみると、和歌山の城下町に生まれ育ったことがわかります。
東京大学予備門(現在の東京大学教養学部)を中退後、アメリカ・イギリスへ渡航し、植物学や民俗学などを独学で研究。帰国後は和歌山県田辺町(現在の田辺市)に移り、変形菌(粘菌類)研究や民俗学の調査に取り組みました。
特に変形菌研究では日本を代表する存在とされ、また、神社林や自然環境の保護活動にも尽力しました。
田辺湾に浮かぶ神島の天然記念物指定にも貢献しており、今回の御製にも登場する神島は、南方にとって非常に重要な場所だったことがわかります。
昭和天皇と南方との御交流
標本の御進献から御進講へ
さて、この南方はどのような経緯で昭和天皇と接点を持ったのでしょうか?それは、昭和天皇が生物学者であったことと関係があります。
二人の御交流の原点は、大正15年(1926)、昭和天皇の摂政宮時代に遡ります。当時、変形菌研究に関心を持たれていた摂政宮のご意向を受け、南方は37属90点の変形菌標本を進献しました。
それから3年後の昭和4年(1929)、昭和天皇は南紀行幸の際、南方から直接御進講を受けることになります。
その際に昭和天皇が上陸されたのが、田辺湾に浮かぶ神島でした。神島は、南方が自然保護活動に力を尽くした島であり、古くから神が宿る島として信仰されてきた場所でもあります。
南方は神島で昭和天皇を迎え、その後、御召艦「長門」艦上にて動植物標本を用いた御進講を行いました。
当日は雨だったとされていますが、昭和天皇は予定時間を延長して南方の説明を聞かれたと伝えられています。
現在、神島は森林保護のため上陸禁止ですが、航空写真を見ると、今も豊かな自然が守られていることがわかります。
「それでいいじゃないか」という御言葉
このとき、南方は田辺付近産の動植物の標本を昭和天皇に献上しますが、終戦後、昭和天皇は大蔵大臣で民俗学者でもあった渋沢敬三に次の御言葉を語ったとされています。
普通献上と云うと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れて来てね。それでいいじゃないか
出典:『父南方熊楠を語る』
また、南方の娘・南方文枝氏によれば、父・熊楠は献上のためにいくつも桐箱を作らせていたものの、最終的には「これが一番よい」としてボール箱を用いたといいます。
(ちなみに、このボール箱は「森永ミルクキャラメル60個入りの化粧外箱の空箱」だったそうです)
昭和天皇がこの出来事を後年まで記憶しておられたこと、また南方が形式より実用を重んじたことが伝わるエピソードです。
昭和天皇と南方が詠んだ神島
昭和天皇と南方にとって、このときの御進講は非常に印象に残ることだったと思います。
というのも、昭和天皇も南方もその後この御進講を振り返り、和歌を詠んでいたのです。
昭和5年、神島に刻まれた南方の和歌
南方は御進講の翌年の昭和5年(1930)、神島の昭和天皇上陸地点に自詠自筆の和歌を刻んだ歌碑を建立しました。
その和歌は、次の通りです。
一枝もこゝろして吹け沖つ風わか天皇のめてましゝ森そ
出典:『紫の花天井に : 南方熊楠物語』
現代語訳すると、「一本の枝も心して吹け、沖の風よ。ここは、我が天皇がご覧になり、お心にとめられた森なのだから」となるでしょうか。
「一枝も」という植物の表現から、南方が自分が保全に尽力した神島への昭和天皇の御訪問にいかに感激していたかが伝わってきます。
昭和37年、昭和天皇が神島を詠んだ御製
南方が神島を和歌に詠んでから約30年後の昭和37年(1962)、昭和天皇は再び南紀を訪れ、神島を望まれました。このときすでに南方は故人であり、没後21年が経過していました。
そのとき御宿泊されたホテルより神島を望み詠まれたのが、冒頭の御製です。
雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
神島という風景とともに、南方熊楠という人物が想起されている点に、この御製の特徴があります。
御進講の日と同様、この日も雨であったとされており、昭和4年の南紀行幸や南方熊楠との交流が思い起こされたのかもしれません。
後に、この御製の歌碑は白浜町の南方熊楠記念館の前に建立されました。
なお、このとき昭和天皇が御宿泊されたのは、ホテル古賀の井というホテルです。
現在は運営会社が変わり、大江戸温泉物語Premium白浜御苑として営業していますが、このホテルの北東に神島があります。
ここから見えた「雨にけぶる神島」はどのようなものだったのか、気になります。
雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
一枝もこゝろして吹け沖つ風わか天皇のめてましゝ森そ
昭和天皇が南方熊楠を偲んで詠んだ御製とは何だったのか。
調べてみると、その背景には昭和4年の南紀行幸で生まれた交流がありました。
南方は神島に歌碑を残し、昭和天皇は三十余年後にその神島を見て御製を詠まれました。
二首の和歌を並べてみると、神島という小さな島が、二人の研究者を結ぶ特別な場所であったことが見えてきます。
なにげなく知った一首の御製の背後には、南方熊楠という一人の研究者の歩みと、昭和天皇との交流の歴史がありました。
参考資料
- 南方文枝, 南方熊楠 著 ほか『父南方熊楠を語る』,日本エディタースクール出版部,1981.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12197237 (参照 2026-04-16)
- 『世界的な博物学者南方熊楠へのいざない』,南方熊楠記念館,[2000]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13996607 (参照 2026-04-16)
- 白浜郷土研究会 編『白浜町の碑文』,白浜町中央公民館,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2989767 (参照 2026-05-18)
- 松居竜五 [ほか]編『南方熊楠を知る事典』,講談社,1993.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13273679 (参照 2026-05-18)
- 楠本定一 著『紫の花天井に : 南方熊楠物語』,あおい書店,1982.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12499728 (参照 2026-05-18)
※国立国会図書館デジタルコレクションの閲覧には、利用者登録が必要な場合があります。
<ウェブサイト>
- コトバンク
- 近代日本人の肖像
- 産経ニュース「高野山・金剛峯寺、南方熊楠や富岡鉄斎の礼状など発見 古文書語る信仰、日露戦争の記録も」(https://www.sankei.com/article/20260410-LPE4XO5EHZOWVI2MP6THK22OFI/)(2026/4/10)
- 産経ニュース「昭和天皇もご宿泊、老舗ホテル「古賀の井」が閉館…耐震診断結果受け 和歌山・白浜温泉」(https://www.sankei.com/article/20160401-VFU2NXQXLBNKPOQIATZLLNUTLI/)(2016/4/1)
- 南方熊楠顕彰館
- 近代日本人の肖像
- 和歌山県 田辺観光協会「神島」(https://www.tanabe-kanko.jp/view/sizen/kashima/)
- 森永製菓株式会社「南方熊楠とミルクキャラメルのふしぎな関係」(https://www.morinaga.co.jp/museum/history/detail/product/184)
